遍路特集のテレビ番組、雑誌、そして遍路体験本を読んでも
遍路の非日常性について理解するが漠然としたものしか伝わらない。
一体、日常と何が違うのだろう・・・
19番札所立江寺に到着。
次の札所までひとりで黙々と歩き続けた。
途中、善根宿の看板があったのでそこで今日は泊ることにした。
私はその善根宿で、あるベテランお遍路さんに会った。
彼は遍路3周目だった。
その夜、善根宿には私とそのベテラン遍路、栄タクシーで一緒だった遍路さんの
3人が泊った。
夜が深くなる。
日常の様々な騒音、TV、音楽、人々のざわめきは、ここでは聞こえない。
静かな時間が流れていく。
私が遍路に来たのは修士論文の野外調査のためだった。
いろいろとお遍路さんにインタビューしながら遍路するつもりだった。
しかし、なかなかインタビューができない。
実際に歩きながらお遍路さんを見ていると、彼らの遍路に対する思いは非常に深いものがあると感じるようになった。
そう思うと気安くインタビューが出来ない。
善根宿に闇が覆いかぶさってきた。
私は、勇気を出して遍路に関する質問をベテラン遍路さんにしてみた。
彼は信仰とかで遍路にきたのではなかった。
彼は私に
「2周目、3周目と遍路での出会う人が違うね。必要があるから出会うんだろう。私が今あなたに語っているのはお大師さんによって会わされているのだろう」と語った。
そして「遍路には意味がある」と語った。
信仰心かどうかわからないが、彼の言葉からでてくる「お大師さん」には遍路を回っているものの重みを感じる。
遍路での経験が、彼にお大師さんに対する思いを強めているのかもしれない。
遍路で生きている彼の生きた語りにはひきつける何かがあった。
その何かはまだ私には分からない。
彼の遍路は回るたびに彼の中で深化していく。
遍路での様々な出逢いが彼の遍路体験を構築し、その体験が特別な意味を帯びるようになる。
彼の遍路はますます非日常性を帯びて、日常から離れていく。
まだ私は彼のように遍路体験を語るレベルまで遍路を体験できていないようだ。
遍路空間に入りきれていないのだろう。
彼の語りは私の遍路のイメージをますます混乱させてしまった。









